尾張津島天王祭-主要用語

主要用語

車(祭船)

天王祭では、車とは船のことです。2隻の船を繋いで1艘に仕立てます。船上に屋形を置き、宵祭ではその上に提灯を飾り、朝祭では屋形の上に屋台を組み上げ、置物を飾ります。江戸期、これらの船は木曽川・伊勢湾沿いの村々から寄進され、祭が終わるとまた戻されました。

津島五ケ村

室町時代からの津島の自治組織で、本町筋の米之座・堤下・筏場・今市場・下構(中島)からなっており、それぞれの地区から祭船を出しました。この津島五ケ村は町方、住民は町衆と呼ばれました。格式ある家柄から選ばれた天王祭の主宰者は車屋と呼ばれ、祭期間中は苗字帯刀が許されました。

市江七ケ村

朝祭には市江船が先頭を進むことが慣わしとなっています。七ケ村とは、西保・東保・西条・東条・荷之上・五ノ三・鯏浦の総称です。市江の車屋は服部家    (荷之上)・宇佐美家(東保)が務めています。

車田

祭の費用をまかなうための田地のことです。この土地は尾張藩から年貢が免除され、収穫された米を換金し、諸経費に充てました。明治新政府により車田はなくなり、祭費用の工面が難しくなり、車楽船は存続しましたが、大山車船は中止されました。

当番車

宵祭・朝祭の先頭を務める船は当番車と呼ばれます。旧津島五ケ村の輪番制です。当番車の車屋・祝司らは、祭の諸準備・連絡・調整など多忙を極めます。

船分け

朝祭の4日前に、祭船に用いる船10艘を神籤で公平に分けます。江戸期は大山車船がありましたので20艘でした。現在は鉄船ですが、江戸期は木造船で、各地から寄進されていましたので、船の大小・新旧があり、良い船の奪い合いが起きたので、籤で決めるようになりました。

斎竹建て

朝祭の15日前に、旧津島五ケ村の各町の出入り口に、注連縄で結びつけた笹付きの斎竹2本を、道路を挟んで建てます。斎竹は祭礼の奉仕するために町中を清めるためのものです。斎竹が建つと、祭りも間近です。

置物(能人形)

朝祭の船上高く飾られる能人形は置物と呼ばれます。置物は神籤で選ばれます。市江車の置物は朝祭の3日前に作られます。江戸期以来、津島五車の先頭を務める当番車の置物は能「高砂」の翁・嫗が恒例です。

稚児

稚児(児)は祭の主役で、神の子です。稚児は3歳から5歳の男子です。江戸期は車屋系統の家柄(筋目)から出ました。祭当日は花烏帽子を冠り、華麗な衣装に玉襷をかけ、2本の撥を肩に載せます。

囃子

お囃子は、楽打ち(大太鼓)・下拍子(締太鼓)・笛で、囃子方と総称されます。室町期以降、曲目は津島笛と呼ばれ、能楽にも取り入れられました。

真柱

宵祭、数多の提灯の中心から真っ直ぐ天に向かって伸びる12個の提灯の柱です。如意とも呼ばれます。閏年には13個の提灯が付けられます。

閏年の天王祭

現在の閏年は1日増えて2月29日があることです。しかし旧暦の閏年は、月数が13ヶ月ありました。ですから、閏年には真柱の提灯が13個になるのです。旧暦閏年で、「六月」と「閏六月」と6月が2度続くことがあります。30~40年に一度ですが、津島天王祭は「六月」と「閏六月」の2回行われました。

尾張津島 天王祭 船分船分け
朝祭4日前に、船分け
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尾張津島 天王祭 稚児打廻し稚児打廻し
朝祭2日前、午後7時頃
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尾張津島 天王祭 神輿渡御神輿渡御
宵祭の朝、
午前10時
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尾張津島 天王祭 宵祭宵祭
午後9時頃、5艘の巻藁
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尾張津島 天王祭 朝祭朝祭
午前6時頃、市江の車楽
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尾張津島 天王祭 神輿還御神輿還御
朝祭で稚児や車屋一
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