尾張津島天王祭-江戸時代の天王祭

江戸時代の尾張津島天王祭

広重の描いた尾張津島天王祭

尾張津島天王祭 歌川広重 宵祭宵祭尾張津島天王祭 歌川広重 宵祭朝祭 「東海道五十三次」(天保4年(1833年)、錦絵55枚)で知られる浮世絵師の歌川広重(1797~1858)は、「六十余州名所図会」(70枚揃)で津島天王祭の宵祭を描いています。
 広重の作品は、当時の人々が憧れた外の世界を垣間見る手段としても大変好評に迎えられました。「六十余州名所図会」に収録されていることからも分かるように、津島天王祭は尾張で最も著名な祭礼であり、日本有数の華麗な祭礼でした。朝祭図は二代目広重が描きました。

尾張津島天王祭図屏風

tennoumatsuri_034.jpg津島天王祭図屏風(八曲一双)
◆所蔵
大英博物館
ギメ東洋美術館(仏)
徳川美術館
名古屋市博物館
津島旧家

尾張津島天王祭の賑わい

尾張津島天王祭 賑わい 江戸中期に書かれた『鸚鵡籠中記』には津島天王祭の風景が書かれています。
「橋の向こう一町余りの両側は市棚が出て賑わっている。橋のこちら側、片町の右方にはからくり、浄瑠璃、十次郎芝居などがあり、その両側には茶屋、うどん、瓜など売り物種々の店が並んでいる…」。
 祭期間中は、美濃・伊勢・三河・遠州から商人が商売に訪れました。また、芝居・からくりなどの見世物小屋が立ち並び、夜遅くまで賑わいました。現在も、20万人をこえる人々が津島天王祭に訪れます。

祭礼番付にみる尾張津島天王祭

尾張津島天王祭 祭礼番付 江戸時代後期に全国の祭礼番付が出されました。番付では、大関は祇園会(京都祇園祭)と天満祭(大阪天神祭)となっています。関脇・小結に次いで前頭筆頭に「尾州津嶋祭」があります。

 全国でベスト10に入り、尾張のみならず中部地方で筆頭の祭に位置づけられています。広重が『六十余州名所図会』で尾張の名所として、津島天王祭を描いた理由もわかります。






江戸期の大山車

尾張津島天王祭 大山車 現在の朝祭では市江と津島五車の6艘の車楽船が出ますが、江戸期には津島の5地区は車楽船と大山車の2艘を出しましたので、朝祭には11艘の豪華絢爛の祭船が天王川を渡りました。

 大山は三段構造でさらに野山があり、20m余の高さでした。頂上部には湯取神子や鉄砲打ちなどのからくり人形が置かれ、野山には龍・鯛、二段目には翁・媼が飾られていました。

 明治6年に尾張藩の寄進中止にともない廃止されました。

尾張津島 天王祭 船分船分け
朝祭4日前に、船分け
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尾張津島 天王祭 稚児打廻し稚児打廻し
朝祭2日前、午後7時頃
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尾張津島 天王祭 神輿渡御神輿渡御
宵祭の朝、
午前10時
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尾張津島 天王祭 宵祭宵祭
午後9時頃、5艘の巻藁
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尾張津島 天王祭 朝祭朝祭
午前6時頃、市江の車楽
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尾張津島 天王祭 神輿還御神輿還御
朝祭で稚児や車屋一
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