尾張津島天王祭と織田信長
織田信長も観た尾張津島天王祭
戦国時代の津島は「尾張の金銀はすべて津島を経由する」と言われ、尾張最大の商業都市でした。勝幡城を拠点とする織田弾正忠家は津島の経済力を背景に勢力を伸張し、信秀の頃から主家をしのぐようになりました。そして、織田信長は尾張国を統一し、全国制覇をめざしました。
津島天王祭の古記録『大祭筏場車記録』の弘治4年(1558)の条には、「かずさ殿、橋の上に御座候て、御見物なされ候、女房達橋坊主のうらに桟敷を打ち、それに御座候…」と記されています。それから24年後、信長は本能寺の変で死去します。
その年の天正10年(1582)、津島天王祭は飾り物を廃し、素車の車楽船を出しました。大山車も取りやめ、津島の庇護者でもあった信長・信忠親子に弔意を表しました。
織田弾正忠家・・織田信定・信秀・信長
津島天王社・・・信長の産土神・神紋は木瓜紋で同じ
尾張藩の寄進
津島天王祭は尾張藩祭として位置づけられ、手厚い庇護を受けました。米、船、竹の寄進があり、「三通物」と言われました。
米・・・・津島五車に合計50石
車田・・・市江に約4町8反(約54石)・津島に約14町4反(約152石)
船・・・・津島に大船20艘が名古屋・熱田・蟹江などから調進
斎竹・・・20本は美濃の兼山と長良から10本ずつ(笹付き8寸廻り)
提灯竹・・500竿は西川端・草平・淵高など
船竿・・・80竿は兼山から寄進されました。
*車田(年貢免除地)
>江戸時代の尾張津島天王祭は