朝祭
華麗な朝祭
朝祭には市江の車楽船(だんじりぶね)と津島の5艘の車楽船が出ます。宵祭が終わった夜、津島の5艘は、提灯を外すなどして、夜を徹して朝祭用に飾り変えをします。
車楽船の二段屋台には置物(能人形)が飾られます。一番車には「高砂」が恒例となっています。前部には車屋が床机に腰掛けます。江戸期、車屋は祭期間中、苗字帯刀が許されていました。稚児、囃子方(締太鼓・笛・太鼓)、乗り方衆、祝司らが乗船し、天王川を奏楽しながら漕ぎ渡ります。
鉾持ち衆
市江車の鉾持ち衆の持つ「布鉾」は悪霊、邪霊を打ち払う武器と考えられます。
「市江祭記」(江戸初期)には「市江島から天王社へ鉾を十本献上するのは、天王・蛇毒気・八王子の十神に各々献上するためである。鉾は悪魔を降伏し災難を払う神剣である…」と記されています。献上された鉾を用いて、神が悪霊、邪霊を降伏しますと災難(疫病・飢饉)が起きないという思想です。
また、鉾持ち衆には、神輿還御の先払い、すなわち道を清めるという役割もありました。三番鉾が楼門前の反り橋に張られた注連縄を切ります。
市江車の特質
天王川が締め切られる以前には、市江の車楽船は佐屋川、天王川を漕ぎ上ってきました。戦国期から、朝祭には市江車が必ず先頭を進みます。
市江車の置物は神籤によって決まられ、鉾持ち衆が10人乗っています。途中、鉾持ち衆は布鉾を肩に順に川に飛び込み、泳いで岸に向かいます。
市江の鉾持ち衆、車屋らは精進潔斎を遵守し、特別に熾した清火で調理し、食事をしました。この慣習は潔斎しないで祭に携わることは神の不興をかうと考えられたからです。
屋台屋根は市江車だけが唐破風の様式です。