尾張津島天王祭-天王祭の歴史

天王祭の歴史

尾張津島天王祭

尾張津島天王祭 平安時代には、朝廷の政争に敗れて怨みをもって死んでいった貴人が疫病、雷や火事を起こすものと信じられていました。この怨霊を鎮める儀式が御霊会です。御霊で有名な神は「北野天神」こと菅原道真です。平安時代には祇園社の祭神牛頭天王も「祇園天神」と称され、京の人々から畏怖されていました。御霊会を起源にもつ牛頭天王系統の祭りは、牛頭天王の荒ぶる荒魂を鎮め、慰める目的で行われました。

 伝染病の多くは夏に発生し、夏の酷暑を無事に過ごすことを祈願するために、牛頭天王を祀る神社では天王祭・祇園祭などの祭礼が行われるようになりました。京都の祇園社「八坂神社」の祇園祭のように、都市部では山鉾や山車・屋台を華麗に飾り、行列や歌舞をともなう風流が行われ、華美を競いあいました。

 津島天王祭は「津島のお天王さま」とも呼ばれた津島天王社の祭礼であり、旧暦の6月14日・15日両日に行われていました。京都の祇園祭では山鉾巡行が行われますが、津島天王祭は川に船を浮かべて行います。それはかつて津島が伊勢と尾張を舟でつなぐ湊町だったからです。

尾張津島天王祭のはじまり

 始まった年代は、確かな史料がなく、創始年代は明らかではありません。現存史料としては「大祭筏場車記録」(仮称)があり、大永2年(1522年)から車楽船の置物人形などが記されており、当時すでに祭りが行われていたことがわかります。これらのことから15・16世紀には始まったとされ500年以上の歴史があります。

尾張津島天王祭の舞台(津島川)

尾張津島天王祭 津島川 天王祭の舞台は、現在は天王川公園の丸池となっていますが、江戸時代の天王川(津島川)は三宅川、萩原川(日光川)が合流した川で、さらに佐屋川に合流し、伊勢湾につながっていました。

 天王川には天王橋が架かっており、戦国時代、織田信長はこの橋から津島天王祭を観ました。津島天王社が鎮座していた地は「向島」と称され、江戸時代には津島天王社の神領(御朱印地)でした。
>織田信長と尾張津島天王祭との関係

尾張津島 天王祭 船分船分け
朝祭4日前に、船分け
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尾張津島 天王祭 稚児打廻し稚児打廻し
朝祭2日前、午後7時頃
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尾張津島 天王祭 神輿渡御神輿渡御
宵祭の朝、
午前10時
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尾張津島 天王祭 宵祭宵祭
午後9時頃、5艘の巻藁
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尾張津島 天王祭 朝祭朝祭
午前6時頃、市江の車楽
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尾張津島 天王祭 神輿還御神輿還御
朝祭で稚児や車屋一
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