津島探訪 知


「千体仏地蔵堂」

千体仏地蔵堂
江戸時代前期の天台宗の僧侶円空は全国各地を行脚し、布教のかたわら10万体をこえる仏像を作ったと言われ、地蔵堂の「千体仏」は完全な形で残っているのは津島だけです。地蔵堂本尊の地蔵菩薩像を中心に5~7㎝の小さな仏像が約1007体が光背の形で配置されています。

LinkIcon地蔵堂はこちら

「市神社十日市祭」

市神社十日市祭
津島市米之座町に鎮座する市神社の祭礼です。古くは名古屋から津島に入る「上街道」に沿って商家が立ち並び栄えた商家の守り神として崇められ、正月10日に初市が開かれた古例を今に伝え商売繁盛を祈願して終日賑わいます。


LinkIcon市神社はこちら

「津島神社神主 氷室家屋敷跡」

津島神社神主 氷室家屋敷跡
氷室家は代々津島神社神主として明治初期まで続きました。その屋敷は広大な敷地であり中世城郭形式の構造をもち、屋敷地の周辺を外堀で囲み、邸内には内堀や池を備えていました。現在は外堀の跡が僅かばかり残っているだけです。

LinkIcon津島神社神主 氷室家屋敷跡

「清正公社」

清正公社
豊臣秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍で有名な加藤清正は、津島で幼少期を過ごしています。清正が幼少の時、鬼の面をかぶって泥棒退治をしたゆかりの地に清正公社として祭られています。


LinkIcon清正公社はこちら

ページの先頭へ

「三養荘」

三養荘
「三養荘」は、津島の町屋の中でも比較的大規模な上に、松尾流宗匠の好みが取り入れられています。この書院は数寄屋としても秀逸で、庭園には千宗旦好みの茶室「一雨軒」があり貴重な町屋です。母屋の建築は貞享2年(1685)と伝えられ、堀田家、服部家と受け継がれ、現在は平山学園清林館高等学校の所有となっています。

LinkIcon三養荘はこちら

「成信坊」

ひき臼寺
成信坊というお寺は、別名「ひき臼寺」と呼ばれています。本堂への参道は石畳となっていますが、この石が臼です。塔頭の金光寺があった頃、山門から金光寺まで臼供養にと信者から寄付されて敷かれたものですが、現在もその一部が残っています。



LinkIconひき臼寺はこちら

「雲居寺」

五百羅漢 雲居寺
雲居寺は「五百羅漢尊」のお寺として有名です。本堂の横にある、五百羅漢堂一杯に色彩豊かな五百羅漢像が安置されています。五百羅漢は、明治時代に信者により寄進されたもので、羅漢とは、諸煩悩から開放され悟りを得た聖者のことです。

LinkIcon雲居寺はこちら

「西方寺」

十王像
西方寺というお寺には、「十王像」が保存されています。江戸時代には東西南北に十王堂が立てられていました。現在は今市場の十王堂のみが現存しています。西方寺に保存されているのは、橋詰の十王像です。


LinkIcon西方寺はこちら

ページの先頭へ

「青池」

青池
「青池」は、かつての天王川水系に属する河跡湖の一つです。昭和二十年代までは、天王川堤防の松並木とヨシに囲まれ近づくのが恐ろしい場所で、カッパが人や馬を引き込んだと恐れられていました。現在は釣り人の憩いの釣り場です。

LinkIcon青池はこちら

「神守の一里塚」

神守の一里塚
「神守の一里塚」とは、江戸時代の神守は東海道脇街道(熱田-佐屋-桑名)の宿場町でした。神守宿の東入口に一里塚が残っています。寛文年間に設けられ、佐屋街道で唯一原型を留めているのは神守の一里塚だけです。

LinkIcon神守の一里塚はこちら

「怪我石」

怪我石
「怪我石」は、昔はこの場所に耕作に行く者は皆怪我をすると言われ、今でも触れると怪我をするという言い伝えが残っています。現在は地域の住民が祠をたてて石神様として祀られています。


LinkIcon怪我石はこちら

「三つ石」

三つ石
「三つ石」は、津島神社の尾張名所図絵にも描かれていますが、何の伝承もなく由来も分からない石群です。古代には神事において神を神体である磐座(いわくら)から降臨させ、その依り代と神威をもって祭の中心としていました。

LinkIcon三つ石はこちら