尾張津島秋まつり-山車まつりの歴史

山車まつりの歴史

山車は神社の祭礼に曳き出されるもので、民間信仰の背景を持っています。山車・屋台の源流は、大嘗会の神を迎えるための「標山(しめやま)」とする説が有力です。

都市文化としての山車祭の最初は京都の祇園祭です。戦国時代に成立した山車祭には、尾張津島天王祭や熱田大山祭、七尾の青柏祭、博多の祇園山笠などがあります。

江戸時代に入ると、各地で山車祭が始められ、その動きはまず城下町から始まりました。尾張では、17世紀に城下町の東照宮祭、犬山祭が始まり、18世紀になると商業都市・湊町において、山車祭の津島七切祭・知立祭・半田下祭・半田乙川祭などが始まりました。この時期には飛騨高山の八幡祭、富山城端の曳山祭、伊賀上野の天神祭なども始められました。

19世紀の文化文政年間から明治に至る時代が山車祭の全盛期です。新たに山車祭を始める町が続出し、小さな町や農村にひろがりました。

風流踊と山車まつり

信長公記「信長公記」   *クリック拡大津島の風流踊の初見資料は『信長公記』です。弘治3年(1557)、「七月十八日おどりを御張行。信長公は天人の御衣装で、小鼓を打ち、女おどりをされた」

戦国期の津島では、御葭踊りが盛んに行われていました。寛文3年(1663)の御葭踊りの期間は津島天王祭の御葭が津島に着岸した6月17日から盂蘭盆(7月15日)を過ぎて7月20日まで30日間ほどでした。この御葭踊りは、踊りを伴う仮装行列の集団で「練物」でした。町方(まちかた)踊と地方(ぢかた)踊に別れていました。この地方踊が市神社の祭礼に発展します。

正徳元年(1711)、この地方踊の行列に、笹提灯・傘鉾などを出したことが津島秋まつりの起源です。


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◆まつりの館津島屋(津島市観光交流センター)は、NPO法人まちづくり津島が運営しております。