縁 起
曹洞宗の寺 本尊 阿弥陀如来坐像
開創 永享元年(1429)
開山 宝山玄チン珍大和尚 宝徳元年(1449)示寂
開基 服部伊賀守宗純 永享12年(1440)没
本堂脇に「羅漢堂」(天保年間)があり、釈迦如来、十六大阿羅漢、五百大阿羅漢尊像を祠る。境内に「蘇鉄」の大木がある。
開基家服部小平太は織田信長に従い、桶狭間の戦にて敵将今川義元を一番槍で突く。その功により松坂城主となる。その後豊臣秀次に仕えるも殉死する。
○月例参禅会 毎月第3日曜日午前7時~8時半(無料)
当山は山号を牛玉山、寺号を観音寺と称し、本山を京都東山七条の智積院に持つ。永正12年(西暦1515年)快祝法師が中興し、見越村(現在の愛西市佐織町)にあり、戦国武将織田信長の父信秀の頃より白山信仰の先達として寵愛を受け、豊臣秀吉・徳川家康の信頼も厚く、白山社(天王通5)と共に現在の地に移り、津島神社の社僧に加わり、牛玉山神宮寺と呼ばれた。御本尊は不動明王、坐像(応永6年良辨作)で毎月28日の縁日には護摩を焚き現世利益を祈願している。参道には四国八十八ヶ所霊場が祀られている。
青龍山吉祥寺 略縁起(真言宗知山派)
古い郷土芸能「くつわ踊り」(県指定無形民俗文化財)の発祥の地中野町に吉祥寺はある。創建年代は不詳だが境内が備前検除地となっていることから、慶長13年(1608)以前の創建と思われる。明治以前は、門前にある八釼社の社僧坊でもあった。本尊は不動明王、本堂には阿弥陀如来、三十三観音、弘法大使などを祀る。築二百年で老朽化した本堂の再生と庫裡「明日葉DOJO」の新築で、古い伝統と新しさが融合した寺院に生まれ変わった。
再興した伝統行事に8月9日の九万九千日詣りがある。
身代山弘法寺は、大悲山岩屋寺(知多四国八十八ヵ所霊場第四十三番)を総本山とする尾張高野山宗(真言宗)のお寺です。御本尊は開山妙紫尼、岩屋寺奥の院参籠のおり感得現示された衆生済度の身代大師(弘法大師)をお祀りしております。聖天堂には、奈良県生駒山宝山寺より生駒山以東初めての、生駒聖天尊御分霊として、商売繁盛、所願成就の双身歓喜天尊をお祀りしております。
弘法寺御詠歌
一、有難や身代大師と歓喜天 二尊の恵みつきぬ弘法寺
二、諸々の悪業救う大師さま 導き給う藤浪の里
三、幾千代の願を頼む身代の 高き誓いを仰ぐともし火
曹洞宗の寺院。「海東古禅林」と称され、応永3年(1396年)七堂迦藍の霊場として創建。天正7年(1579年)の地震と火災によって現在の地へ移寺。
本尊は「薬師如来」諸根具足、除病安楽のご利益あり。他に「牛頭天王」を所蔵。中世の神仏習合思想によって薬師如来の化身とされ、同様に病気を治してくれるとして信仰される。(年1回5月3日にご開帳)
市文化財「雲版」所蔵。史跡として堀田木吾の墓がある。
浄土宗の寺(もとは時宗一向派)
弘長年間(1261~1263)堀田尾張守正重公の創建で、その子弥阿上人を開山とする。
本尊は阿弥陀如来立像。隣の厨子に不動明王像。
境内に太子堂、馬頭観音像のほか加佐登神社・稲荷神社のやしろがある。尚、津島市本町出身の英詩人野口米次郎が、少年期この寺にあった陶成学校で学んだという記述もある。
西方寺は岳翁山生院と号し、16世紀初頭室町時代に創建される。本尊は阿弥陀如来(坐像・514㎝・藤原時代)である。
尾張藩主と関係が深く、使節は度々当寺を宿坊とした。この寺は当初橋詰町にあり、火難を避けて1700年代に奴野城址とされる現今の地に移転した。現在、十王尊は改築された本堂内に奉安されている。
1395年、津島神社宮司氷室家により開基された曹洞宗の寺院であり、本尊は如意輪観音である。尾張西国三十三観音巡りの二十一番目の札所でもある。
お参りのときに誦んで下さい。
○延命十句観音経
観世音 南無佛 與佛有因 與佛有縁
佛法僧縁 常楽我淨 朝念観世音
暮念観世音 念念従心起 念念不離心
沿革 鏡池山 瑞泉寺
浄土宗西山禅林寺派 創建は永正4年(1507年)移建
当寺は、後醍醐天皇のひ孫良王(りょうおう)親王様菩提寺。
浪合記、良王君伝、信濃宮伝に記されています。茶席は椿園(ちんえん)江戸後期の津島神社の神主家で京都歌壇、桂園派の四天王と称された氷室長翁の茶席を明治に譲り受ける。芭蕉句碑あり(草びれて・・・)津島川祭り佐屋村に台尻大隅守(だいじりおおすみのかみ)という北朝方の武家にあり祭りにさそい台尻を討つ。この台尻からだんじり船という。稚児門は川祭り祭礼当日に稚児が門より小船で本番に向う。
宗派 浄土宗西山禅林寺派に属し、山号を「亀伯山」、本山は京都・禅林寺(水観堂)である。
沿革 建武の中興を企画された後醍醐天皇の第三皇子宗良親王は、妙法院から天台座主になられた。北条高時との戦いに敗れた後醍醐天皇は奈良笠置山へ向かった。これを助けるために宗良親王は天台座主の席をなげうって父皇の理想を実現するために奔走された。
その宗良親王の皇子に尹良親王がおられた。南朝復興のために各地を移転したが、浪合の地(現・長野県阿智村)で戦死される。
その遺児良王(後醍醐天皇の曾孫にあたる)を共奉して忠臣たちが津島の地に逃れ、定住するようになり代々栄えていった。
この良王が亡き父尹良親王の法号・大龍寺殿をもって寺号としたといわれている
創建 寺伝には永享7年(1435)創建とあるが、墓地にはそれ以前の明徳2年(1391)と刻まれた宝篋印塔もあるから明確にはわからない。良王に供奉してきたといわれる四家七党のうち恒川家、真野家、光賀家などが今も当寺の檀家である。
本尊 本尊・阿弥陀如来坐像(高さ二尺五寸)は、延暦寺三代座主の慈覚作と伝えており、現在愛知県文化財に指定されている。
従事、塔頭に賓樹院があり、その本尊だった十一面観世音菩薩は、古来秘仏であったが、当寺に安置され、尾張西国二十二番札所である。
また巡検使街道の北口にあった十王堂の十王像も当寺に安置している。
事業 当寺では、境内に「正風館道場」を設け、剣道・居合道・杖道の指導をしている
真言宗智山派 元神宮寺 宝寿院
弘仁9年(千百有余年前)弘法大使、この地に来られし時、人々が疫病に苦しむを哀れみ、牛頭天王社(現在津島神社)の脇に薬師如来を泰安し病期平癒を祈願された。これが天王社神宮寺の基となる
爾来別当として 天王社に出仕するが、明治初年 神仏分離のお沙汰により、社中の本地仏 薬師如来を始め、仏像仏画経巻すべて、当院に移される。時代の動乱を乗り越え、信長・秀吉の信仰を一心に受けられたご本尊 厄除け薬師の霊験は、今もなお益々輝きを増し、病気平癒・災厄消除 所願悉く成就す。
(見どころ)
・鎮守の森に囲まれ、鳥の声と季節の花々が心を癒す静かな境内。
・泉大龍神のお前立て「重軽さま」願いを念じて持ち上げてみましょう。
・幽玄の音色、水琴窟。・子授け水子地蔵(平安期作)等々。
○毎月1・8・15日 厄除薬師護摩祈祷厳修 ○毎月21日 写経会開催
閑かで 安らぐ寺 宝泉寺
浄土宗西山林寺派のお寺で、本山は京都東山の永観堂です。
ご本尊は、阿弥陀如来です。本堂には、一光三尊善光寺如来、秘仏の十一面観音、西国三十三観音御分身を祀っています。
境内には、樹齢450年の大きなクスノキがあります。また千体地蔵堂・六地蔵・子どもの熱が下がるというおこり地蔵・津島の芸者たちが芸事上達の願掛けをした弁財天があります。
日蓮宗の寺。山号は津島山。本尊は法華経題目宝塔。
戦国武将が学んだ愛知県で最も古い寺小屋とされる。
清正公盗賊退治の故事より「盗難除守り」が古くから伝わる。
縁起
元は真言宗で津嶋山高乗坊と称した。
寛正5年(1464)日蓮宗に改宗し、妙延寺と改めた。
加藤清正公が上河原の叔父の家に寄寓していた幼少時代に、妙延寺で、時の住職日順に読み書き手習いを習ったといい、境内には清正が草紙を掛けたと伝わる「清正公草紙掛松」の幹の一部が残る。
曹洞宗(禅宗) 大珠山 龍渕寺
御開山 常楽禅寺二世仙巖能範大和尚禅師
御本尊 如意輪観世音菩薩坐像
開 基 平野遠江守長泰
「長泰院殿法巖了無大居士」
嘉吉元年(1441年)創建
賤ヶ岳七本槍衆の一人で関ヶ原合戦後に家康公三代につかえた。「槍の五千石 平野は光かる」と田原本音頭にも詠われている。奈良県田原本町の地で70年の人生を閉じた。
宗旨 浄土宗(総本山・知恩院)(旧時宗一向派)
開基 弘長2年(1262)彌阿上人(尾張守堀田正重公第六子)
歓喜踊躍(かんぎゆやく)よろこびおどりだす(念仏往生の究極の姿)
寺宝 県指定文化財
開山 彌阿上人像(1347)
派祖 一向上人像(1470)
毘沙門天王像不詳(伝 信長請来)
吉祥寺の縁起
当寺は、憶感山と号す、新義真言宗智山派にして蜂須賀蓮華寺の末寺な、恵心作正観世音菩薩の木座像を本尊とする。
式内憶感神社の別当職にて、社号を山号に呼び来れり、元は当寺及び神社は大木南東の地に在りしを、正保5年佐屋街道を開き神守宿を設けられる時、北神守の郷家と共に此処に移れり。其旧地は、現在の処より北方二町許字寺屋敷と称する所なり。此時の主僧良桂を中興開山とす。
一、高野山真言宗
創建天正4年 高野山より弘法大使像をお迎え、安置され越津弘法さんとして
親しまれ当時は露店も出店、にぎわったと言われました。
一、脇仏 不動明王・観世音菩薩
年間行事
一、新年祈祷会
一、節分会
一、土用ホーロク灸会
毎月行事
一、1日 ホーロク灸
一、21日 阿息観
沿革
曹洞宗の寺 創建は文禄3年(1594)
秋田県にかほ市三森の斉藤という女性(皓月因明尼)が両親の菩提を弔う目的で建立した。当初は浄土真宗の寺院だった様だが改宗され広済寺(あま市)九世長國義養和尚が文禄3年に創建した。当初四宝山と号されたがその後無量山と号された。本尊様は阿弥陀如来の立像。右手を上げ左手を下げ共に掌を前に向け其々の手の親指と人差し指で輪を作り信者の臨終時阿弥陀如来が西方極楽浄土より迎えに来る時の印相とされている。
浄土宗 鎮西派(総本山 知恩院)
慈興山 甘露院 円成寺
[沿革]
開創年代不詳。もと真言宗の寺が、江戸初期に浄土宗の西方寺となり、関通上人が元文元年(1736年)、持戒念佛道場として円成律寺と改称する。その後、円成寺と称されている。
西光寺には鎌倉時代の「地蔵菩薩立像」があり、県指定文化財となっています。玉眼、奇木造の高さ160㎝等身大の立像です。後世の補修がありますが、写実性に鎌倉時代初期の特色があり、運慶あるいはその流派の仏師の製作によるものとされています。地蔵菩薩に添付されてきた詠歌「御仏のめぐみの早きなぞらへに高間の水の落つる姿を」から、「水落ち地蔵」と呼ばれています。
この地蔵尊は身の丈二尺五寸
蓮台の上に立たせ給う石見の霊仏にましまし昔より眼病又は乳の授かる地蔵として信仰厚く祈願の女難産の時は身代りとなりて、全身汗をかき給い汗かき地蔵とも言われている。かかる名高き地蔵尊なれば近隣まれに立派なお宝です。
ご縁日
初地蔵 新暦1月24日
地蔵盆 新暦8月24日
地蔵堂には、「千体仏」と「護法神像」「善財童子像」「韋駄天像」が残されています。これらは、延宝年間(1673~1681)の作品で、円空の千体仏が全国で唯一完全な形で残っています。
地蔵堂の千体仏は、21㎝の本尊「地蔵菩薩」を中心に、5㎝程度の小仏千体(1008体の小仏)が階段状に光背としてぎっしり並びつけられています。
お堂の中には色彩豊かな十王が安置されています。
仏教では、人が死ぬと地獄や天上などの世界に行くと信じられていますが、その行先を決定するのは閻魔王を筆頭とする十人の王たちが勤める裁判官です。人の死後7日から7日ごとに、最初の王から順に裁かれ、35日目には、最も重要な六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のどこに生まれ変わるかを閻魔王が決定するのだそうです。ですから、閻魔王は十王の中心的な裁判官といった存在なのです。
閻魔王らの十王をお祀りして自分たちも極楽へ行きたいと願うのが十王思想です。
旧暦7月16日は「閻魔賽日、縦横詣の日」でお祭りが行われました。